感性とはニューラルネットワークがチューリングマシンを完全にエミュレートできないために生じているのでは?

ヒトには理性と感性があるという考え方は古代ギリシャの哲学者たちのころから一般的な考え方だ。理性と感性がどのように生じているかは昔からの課題だ。最近私はある考え方に取り憑かれている。本来、自称理学博士(物理)としては、自分で論文を読み漁って調査研究しなければならないのだが、今の私にははっきり言ってそんな気力は無い。インコたちの世話と遊戯王デュエルで忙しい。そこでアイディアだけ書き留めておく。

およそ計算機が計算可能なものはすべてチューリングマシンという数学モデルで記述される。これは完全に論理的な機械であり、理性とは言えても、感性の入り込む余地は無い。一方でヒトの知性は神経細胞で構築された脳の活動によって実現している。脳科学はいまだ胡散臭く、科学と呼ぶのもおこがましい状態だが、一応、それを元にして神経細胞のネットワーク、つまりニューラルネットワークによる計算モデルがある。近年の人工知能の急激な発展も、このモデルに依る。さて、ヒトには理性と感性があるが、理性の中核、いや、すべてと言っても良いものは、論理である。ニューラルネットワークで作られたヒトの脳は、チューリングマシンでモデル化される論理的な計算ができる。一方で感性はまったく論理的ではなく、論理的でないところに意義がある。ともかく、ヒトはニューラルネットワークだけで理性も感性もこなしている。

私は物理学を専門としてきたので、計算機科学はサッパリ分からない。と言っても、実践的なプログラミングはいくらでもこなす。今の問題で私が知らないのは、ニューラルネットワークがチューリングマシンをエミュレート可能なのかどうかということ。たぶん、一応可能だけれども、ときどき逸脱することもある、という感じなのではないかと想像している。と言うのも、チューリングマシンは完全に決定論的な機械だが、ニューラルネットワークはどうしても確率論的な機械だから。この理解が正しいのかどうか、本来なら論文を読み漁って調査研究しなけれ(rya

私が今取り憑かれているアイディアというのは、ヒトの感性というものは、ニューラルネットワークがチューリングマシンをエミュレートしようとして完全にはうまく行かず逸脱した部分なのではないかということ。脳は100%ピュアな論理機械を実現できず、それでも自己肯定しなければ生き残れず淘汰されてしまうので、論理すなわち理性からの逸脱を感性という肯定的な概念で自己弁護しているのではないか。もしヒトが理性と感性を完全に分離したとしたら、理性だけで十分であり感性は余計なものとして認識されるはずだが、脳が神経細胞で構築されている限りその完全分離は実現できない。そのことへの絶望を乗り越えて生きるために、本来不要で有害である感性を肯定し続けなければならないのではないか。

この考えが正しいのかどうか、本来なら論文(rya


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